東宝ミュージカル帝国劇場公演`エリザベート’観劇

昨日は、東宝ミュージカル`エリザベート’の観劇のために、久しぶりに帝国劇場に行ってきました。
`エリザベート'は、数あるミュージカルの中で最も好きな作品の一つです。先日のブログでも触れましたが、過去に東宝版1回、宝塚版3回、ヴィーン版1回私は観劇していて、今回が6回目となります(ただしマテ・カマラス×姿月あさと×武田真治LIVE、等のライブは省きます)。ちなみにあさこさん(瀬奈じゅんさん)主演の作品としては、3作目となります。
今回のエリザでは、シシィ役がコムとあさこさんのダブルキャストで、トート役はトリプルキャストとなっています。私はトート役としてのキャリアが豊富で、歌・演技に定評のある山口祐一郎さんとのコンビの舞台を観ることにしました。
客席は平日のマチネだったためか、比較的年齢層の高い女性の方が殆どでした。先行予約の抽選で当たったため、私は比較的前の席で観ることができました。
観劇の感想としては、非常に素晴らしいものでした。私は個人的には、これまでヴィーン版が最も完成度が高いと思っていたのですが、今回はそれに負けずとも劣らじと言っても過言ではないような素晴らしい出来映えの舞台だと感じられました。
以前から私の観劇レポは独断と偏見だらけですが、今回もまた長文になってしまいました。
(注:ここからはかなり内容を具体的に紹介しますので、ネタばれを嫌がる方は、私の下手な解説とは言え、読まないことをお勧めします。)
<以下主として引用>
~どうして、「エリザベート」という人物をミュージカルの題材に選んだのでしょうか?
もともとは、ハプスブルク家の凋落というものに非常に魅せられていた。大きく時代が変わった明治維新の日本と比較できるんですが、ヨーロッパでは、何千年にもわたってこのまま維持され、破壊されることはないと思っていた世界が、第一次大戦を境に大きく変わった。ひとつの世界が崩壊する形に魅了されたのです。
~なぜ`崩壊の形’に関心を?
現代と非常に似通っているというところでしょう。崩壊とは、外面的なものではなく、むしろ内面的なものや考え方の中でおこっていくものなのです。現代もそうです。たとえば、私たち人間が、このままずっと今の通りに行動し続けるなら、200年後の地球は、人が住めるような世界ではなくなるでしょう。そのことは誰しもがわかっている。けれども、そう思いながらも行動できないのではないでしょうか。そういう意味では19世紀も現代も同じ。だから、私は、崩壊から逃れる道を導きだすことができる登場人物を探していたわけです。
それがエリザベートでした。しかも彼女は、自分が凋落のシンボルであると知っていた。凋落を事前に察知していながら、結局は自分の存在はなんら意味をもたないと思っていたのです。彼女は鬱的な性質をもっていましたが、ちょうど凋落していく世界にも同じ雰囲気を感じ取っていたんでしょう。
鬱病の多くの人々がそうであるように、エリザベートはつねに「死」というものを頭に思い浮かべていました。しかも自分だけが憂鬱なのではなく、世界全体が憂鬱に包まれていると思っていた。彼女は実際に社会の滅亡を理解できる人でもあり、「死」は凋落していく彼女の世界の象徴でもあったわけです。
ここに典型的な女性らしさが出るのですが、まるで男性と戯れるように、彼女は「死」と戯れ、「死」を愛していました。
`「死」を愛する’という考えを文字通りに捉えると、当然のことのように舞台上に「死」が登場することになります。エリザベート自身が愛の対象として夢見ていたのではないかと思われる人の姿で表そうと考えました。すると浮かんできたのは、たとえばハイネのような、ロマンチックで若く麗しくセクシーな男性の姿。ですからトートは、本来の死からイメージされる暗く不気味な感じではなく、今のような形になりました。エリザベートの頭の中で渦巻くものをいかに表現するかということですが、それはつまり彼女の内面の対立というのをいかに見せるかということ。私は、舞台上のトート=「死」は、いうなればエリザベートの分身、もうひとりの彼女というふうに考えています。
<引用終了>
クンツェ氏がいかなるモチーフをもってこの作品を作り出したが、よく理解できる。
崩壊していく世界、それはその象徴であるエリザベートの内的世界でもそれが反映された外的世界でも形として表れていく。そこに「死」=トートを登場させ、彼女の内なる苦悩と死との格闘(或は戯れ)をハプスブルグ家の崩壊と社会の混迷化とパラレルに展開していく。
その意味では、この作品は、混迷を極め不安感に苛まれる人が激増している現代人にこそ、観てもらいたい作品であると言えよう。
このクンツェ氏が描き出すトート像に最もはまっているのは、どの役者だろうか。今回の舞台では、山口さんの圧倒的な存在感と迫力ある歌声に王者の貫禄すら感じさせられた。
過去の私が知っているトートでは、東宝版の内野さんに関しては演技巧者振りが印象的であった。月組のさえさんやライブで見たずんこさんは耽美的と呼べるほどに美しかった。雪組のミズに関しては、やや爬虫類系の演技であるとの感想を抱いた。ヴィーン版のマテ・カマラスはロック歌手ということもあって野獣系の迫力があった。あさこさんのトートは繊細かつ情熱的であったように感じられた。
今回のあさこさんのシシィは特に素晴らしかったように思う。前回月組公演のシシィの際には、まだ歌特に高音に不安要素があったため、苦悩するシシィとあさこさんとを重ね合わせてはらはらどきどきしながらみていたものだった。今回は少女期の可憐さから、「私だけに」の感情の籠った熱唱、皇后としての気品と威厳、晩年の苦悩とルドルフを喪った絶望感に至るまで完璧であったように思う。
山口さんのオーラとあさこさんのオーラとが抜きんでていて、他の役者さん達を圧倒していたようにも感じられたが、これはヨーゼフやルドルフらの本来の役柄から考えてもよかったように思う。
石川禅さんは、優しくかつ優柔不断な傾向のあるヨーゼフ役を上手く演じていたと思う。歌にも定評があるため、特に私が好きな「夜のボート」のあさこさんとのデュエットなどは特に良かった。
ルキー二役の高嶋政宏さんはずっとこの役を演じているため、はまり役となっている感じである。軽妙な動きと語りは流石である。
ルドルフ役の田代万里生さんは評判通り、歌が見事である。これからの成長ぶりを期待したい。
他に特筆すべきは、シシィの父のマックスを演じた村井国夫さんとゾフィーを演じた寿ひずるさんである。特に寿さんのゾフィーには凄みがあって、ヴィーン版のクリスタ・ヴェットシュタインを思わせる名演だった。
この舞台は例によってイケコ氏が演出をしている。ヴィーン版のような派手な舞台装置や、宝塚版のような華麗さはないが、歴史的背景を踏まえたリアルな演出は、シシィの苦悩に満ちた生涯とうまくマッチしている。
私は宝塚時代からずっとあさこさんの舞台を観てきている。あさこさんはこれまで男役として多彩な役柄を演じてきているが、特に「『A-“R”ex』―如何にして大王アレクサンダーは世界の覇者たる道を邁進するに至ったか―」のような綿密な心理描写を要する難解な作品が好きだった。心理描写が難しいこのシシィは、あさこさんの女優としての代表作になると思われる。
他にこのシシィ役を誰に演じてもらいたいかと言うと、オサ(春野寿美礼)以外に考えられない。オサならあの美声を披露しながら、繊細かつ大胆にシシィを演じてくれるように思う。花組時代のような、オサアサでの共演はもはや遠い夢となってしまったが、今度はシシィ役で競演して欲しいものである(苦笑)。
テーマ : スミレ話@宝塚歌劇団
ジャンル : 学問・文化・芸術