観劇の魅力~「グレート・ギャツビー」から
しばらく観劇から遠ざかっていたのですが、今週の木曜日のちえさんのロミジュリの観劇をすることにしました。
以前に観劇していた頃には、観劇前後に必ず原作を読んでいました。それによって読書の幅が広がったような気がします。
以前ブログで記していた観劇レポ・原作読後感想文等は既に消去してしまっていますが、その下書きとなる文章は未だに残してあります。それを今改めて読み返してみると、ブログをつけることの効果を痛感させられます。
<以下過去の自分のブログよりの引用>
(その1)
1922年、F・スコット・フィッツジェラルドは、「何か新しいもの、斬新で美しくて質素なもの、手のこんだ構成のもの」を書くと宣言した。それが、彼の代表作にして最高傑作である、『The Great Gatsby』(邦題『グレート・ギャッツビー』、または『華麗なるギャツビー』)だ。「ジャズ・エイジ」の光と影を描いた本書は、狂欄の1920年代の雰囲気をとらえた小説で、「アメリカの神話」の中で不動の地位を占めている。
貧しさの中から身を起こし、裕福になったジェイ・ギャッツビーは、フィッツジェラルド、あるいはアメリカそのものにつきまとう、金や野心、貪欲さ、進歩主義信仰などの強迫観念を象徴する。
「ギャッツビーは、緑の灯火を信じていた。お祭り騒ぎは、年々かげりを見せはじめているというのに、未来は明るいと信じていた。いざ、その時が来て、明るいはずの未来が素通りしていっても、たいした問題ではない。明日になれば今日より速く走ることができるし、大きく手を広げることもできるから…そしてすがすがしい朝が――」
Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us. It
eluded us then, but that's no matter- tomorrow we will run faster, stretch out our arms
farther...And one fine morning-
夢の実現と崩壊を描いたこの小説は、「アメリカンドリーム」に一種の警鐘を鳴らす作品なのだ。
(その2)
私が今度観劇を予定している、スコット・フィッツジェランドの名作‘グレート・ギャツビー’中に、軽薄で無思慮な米国人の気質を告発する次のような一節がある。敢えて原文から紹介しておく。
I couldn’t forgive him or like him, but I saw that what he had done was, to him, entirely justified. It was all very careless and confused. They were careless people, Tom and Daisy-they smashed up things and creatures and then retreated back into their money or their vast carelessness, or whatever it was kept them together, and let other people clean up the mess they had made…
(その3)
この原作の本質に関しては、以下のようなamazonの書評が的確である。
「 貧しさの中から身を起こし、裕福になったジェイ・ギャッツビーは、フィッツジェラルド、あるいはアメリカそのものにつきまとう、金や野心、貪欲さ、進歩主義信仰などの強迫観念を象徴する。(中略)夢の実現と崩壊を描いたこの小説は、「アメリカンドリーム」に一種の警鐘を鳴らす作品なのだ。(中略)無駄のない文章、 洗練されたストーリー、透き通った文体。‘The Great Gatsby’は優れた詩文でもある。
村上春樹氏は自身の解説の中で、
「もし‘グレート・ギャツビー’という作品に巡り会わなかったら、僕はたぶん今とは違う小説を書いていたのではあるまいかという気がするほどである」
と語っている程である。
ところが、演出家のイケコ氏はこの原作に対して宝塚的な大胆な改作を断行した。それは原作の魅力を損ねるものではあるが、‘愛’・‘美’‘優雅さ’をテーマとしており、原作とはまた違った光を放っている。
そもそもこの作品では、アメリカという国の繁栄と享楽とに隠れた陰の部分(人種差別・階級構造・軽佻浮薄で伝統も因習も重んじない人間性等)を徹底的に風刺かつ批判している側面を有している。その点に関しては、以前のブログ内でも紹介した。
主人公のギャツビーは貧しい育ちであるが、大いなる野心を内に秘め、社会的な成功を目指していた。軍人として輝かしい成果を上げる際に、名家の令嬢で無類の美貌を有するデイジーに出会ってその魅力の虜になり、2人は恋に落ちる。ところが、戦線に赴いたギャツビーは、デイジーを欺いてきた名門の出身でないことから、復員後に裏商売に手を染め、若くして莫大な富を築く。ところが、連絡のないギャツビーの帰りを待てないデイジーは、真の名門の出であるトム・ブキャナンと結婚しており、トムにはマートル・ウィルソンという愛人がいた。
デイジーと再会し、トムと別れたデイジーと再婚することをずっと夢見ていたギャツビーは、トムと激しい喧嘩をする。2人に挟まれて動揺したデイジーは、そのストレスを解消すべく、トムの車にギャツビーと一緒に乗って自ら運転するが、丁度亭主と喧嘩したばかりで、トムの車を愛人が運転しているものと勘違いしたマートル・ウィルソンを轢き逃げしてしまう。
愛する妻を殺されたウィルソンは、車を運転していたのがギャツビーだと判断し、自分が運転していたと証言してデイジーをかばったギャツビーの許を訪れて彼を殺害し、自らその命を絶つ。
トムとデイジーとは、ギャツビーの葬式に参列することも真相を明らかにすることもなく、すべては闇の中に伏されてしまう。
以上が原作の主たる内容であるが、文学作品というのはある意味、全てを明らかにせず、読者の想像に委ねる事で、余韻が増して味わい深さも残るところがある。そのため、この作品を読んだ私は、何てトムとデイジーは無思慮で身勝手で残虐なのだろうか。これが軽薄でずる賢い米国人の特徴なのだろうかと考えていた。また何でデイジーのような女性を妻に持ちながらトムが愛人に夢中になってしまうのか理解に苦しむ点もあった。
女性に限りなく優しいイケコ氏の解釈はかなり恋愛的かつ美的である。ギャツビーが戦線に赴く際にデイジーの許を去るのは、デイジーの両親に反対されたためだとの設定を加え、トムとギャツビーとの対立では、ゴルフ場でのスコア対決という微笑ましい場面を設定した。また原作では、ギャツビー死後のデイジーの心情・行動は全く語られてなく、ギャツビーの葬式は無視されているが、この舞台ではデイジーをギャツビーの埋葬の黙祷に向かわせる。デイジーに対して美的で理想化された解釈が加えられている。
それでいて結構辛辣な内容を歌にしている。「女の子はバカな方がいい」との歌は、女は綺麗に生まれて、人の世を知り不幸になってしまうことすら分からないくらいバカな方が幸せである、と虚栄に満ちた女性の本質と幸福の永続性のなさを、原作同様に痛烈に風刺している。「恋のホールインワン」での、‘ボールじゃない、恋人はクラブじゃ打ち落とせない、どんなクラブ使っても’というのは味のある台詞ではある。また、暗黒街の顔のマイヤーに、デイジーに狂うギャツビーに向けて吐かせた、‘麻薬よりももっとたちの悪い、素人の上流階級の人妻に手を出したのか’にも唸らされた。
舞台構成も魅力的である。舞台というのは、自分が想像上で作り上げた世界を具現化・具象化する役割を担ってくれる。ギャツビーが対岸のデージーが住む緑の灯火を眺めるシーン等は、あさこさんの後姿も相俟って非常に良かった。また、英国紳士的なゴルフシーンなどは珍しくて面白かった。(現実には到底無理だが)私もあんなお洒落にゴルフをしてみたいものだと思った(滝汗)。青と黄色の2台の派手な車も効果的に使われている。またこの作品では神の眼、聖書の中身も歌等で取り上げられており、全体を俯瞰する神の眼を上手く背景に持ってきて、舞台の内容に深みを齎している。
内容の解説が余りにも長くなってしまったが、ギャツビーを演じたあさこさんがその存在感・演技・衣装の着こなしといい、正に完璧であった。特にピンクと白のスーツの着こなしが素晴らしい。一途にデイジーを思う姿と、悪に手を染める残虐な姿、それでいて麻薬には深入
りしない(デイジーに夢中になってマイヤーに非難されても)ところが、宝塚的に誠実な人間像で素晴らしかったように思う。ただ私の個人的意見としては、以前から余りにもあさかなに嵌っていたので、すでに退団したみほこさんに復帰して、‘焼けぼっくりに火がつく’二人の愛を実際に演じて欲しいとの願望を抱いてしまった(苦笑)。
デイジーを演じたあいあいに関しては、最初は何故ここにみほこさんがいないのだろう、という訳の判らない違和感を抱いてしまっていたが、魅力的に演じていたと思う。上流階級の思慮の浅い女性というより、宝塚的な比較的誠実な女性を演じてくれた。また美貌の女性の持つ虚栄・悲哀・残酷さをうまく表現してくれていた。
トムを演じたもりえさんの演技も良かった。原作のイメージでは、筋骨隆々たるアメフトのスター選手だったが、こればかりは仕方ないだろう。
ニック・キャラウェイを演じたあひもまあまあである。語り手・狂言回しのようなこの役は、簡単そうで難しい。余り感情移入がないのが却って良かったのかもしれない。
専科の方は当然の如く演技が上手かったのだが、他に私が特に感心したのが、暗黒街の顔役、マイヤーを演じたリュウの格好良さである。マフィア的悪役像が非常に様になっていた。
東京までわざわざ観劇に行って良かったと思う。はまってしまっていた、‘スカピン’に続いてイケコ氏の演出に唸らされた。
だが、この作品の本質はこんな、宝塚的恋愛・美的演出にあるのではない。作品の最後の方で解説が加えられていたが、トム・デイジー・ギャツビー・ニックの全員が西部出身であり、そこには東部の生活に馴染めない微妙な問題が示唆されていた。
また新大陸としてのアメリカを発見したオランダ人の船乗りからは、アメリカが‘この島は新世界の鮮やかな緑なす乳房’として映じていたと記載されている。
見渡す限りの樹林は、アメリカの繁栄と消費のために消え失せてしまった。そして実現したかに見えた夢も崩壊してしまった。
それでもこの原作の最後では、以前に紹介したように、
So we beat on, boast against the current, borne back ceaselessly into the past.
「だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも」
と記されている。
苦難にもめげず、絶えざる努力を続ける必要があるのだ、と帰りの新幹線の車中でひたすら暗い内容の「カラマーゾフの兄弟」を読みつつ思ったのであった。
<引用終了>