「資本論」から見るマルクスの慧眼
最近の世界情勢は混迷の度合いを深めています。このような時代にこそ、古典的名作に接する必要があります。
私が敬愛ある、評論家の故小林秀雄氏は、「私の人生観」(人生について 中公文庫)の中で以下のように語っています。
<以下引用>
観法はそのまま素直に画家の画法に通じ、詩人の詩法に通じた。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、其貫道する物は一なり、と芭蕉は言っているが、彼の言う風雅とは、空観だと考えてもよろしいでしょう。
あらゆる思想は通貨のようなもので、人手から人手に渡って、薄穢く汚れるものです。
芭蕉が、貫道する処は一なりといった意味は、何々思想とかイデオロギイとかいう通貨形態をとらぬ以前の、言わば、思想の源泉ともいうべきものが、達人達の手によって捕えられた、という意味であろう。
<引用終了>
ここで強調されていることは、宗教やイデオロギーに惑わされることなく、それを生み出した達人の思想の源泉に直接到達することの重要性です。そのためには、可能であれば達人の作品或は著作に直接アプローチするのがベストです。
自分のための参考資料も兼ねて、マルクス「資本論」から引用した文章を下記にメモとして記しておきます。

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私(マルクス)の弁証法的方法は、その根本において、ヘーゲルの方法とちがっているのみならず、その正反対である。ヘーゲルにとっては、思惟過程が現実的なるものの造物主であって、現実的なるものは、思惟過程の外的現象を成すにほかならないものである。しかも彼は、思惟過程を、理念(イデー)という名称のもとに独立の主体に転化するのである。私においては、逆に、理念的なるものは、人間の頭脳に転移し翻訳された物質的なるものにほかならない。
貧国とは、人民が安楽に暮らしている国である、富国とは人民が一般に貧しい国である。
今日では努力は、その報酬から分離されている。同じ人間がまず労働して、それから休息するのではない。そうではなく、ある人が労働するがゆえにこそ、他の人は休まねばならない。
労働の生産緒力の無限の増大も、無為な富者の奢侈と享楽の増加以外には、何の結果ももちえない。
資本の蓄積に対応する、貧困の蓄積をかならず生む。一極における富の蓄積は、同時に対極における、すなわちそれ自身の生産物を資本として生産する階級の側における貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積である。
資本主義体制の内部では、労働の社会的生産力を高めるためのすべての方法が個々の労働者の犠牲において実行されること、生産の発展のためのすべての手段が生産者の支配搾取手段に変じ、労働者を部分人間に不具化し、彼を機械の付属物に引き下げ、彼の労働の苦痛をもって労働の内容を破壊し、独立の力としての科学が労働過程に合体されるにしたがって労働過程の精神的緒力を彼から疎外すること、これらの手段は彼がそのもとで労働する諸条件を歪め、労働過程中きわめて狭量陰険な専制に彼を服させ、彼の生活時間を労働時間に転化し、彼の妻子を資本のジャガノート車輪の下に投げ込むこと。
剰余価値の生産のためのすべての方法は、同時に蓄積の方法であり、また蓄積の拡大は、すべて逆に、かの方法の発展のための手段となる。
生産手段の集中が大量であればあるほど、それに応じて同じ空間における労働者の密集も、ますます甚だしく、したがって、資本主義的蓄積が急速であればあるほど、労働者の住宅状態は、ますます悲惨になる。
いわゆるキリスト教人種が世界の到るところで、またその征服しえたすべての民族にたいして演じた蛮行と無法な暴行とは、世界史上のいかなる時代にもその比を見ず、いかに粗野で、蒙昧、無情で、無恥な人種にあってもその比を見ない。オランダの植民地経営史は~しかもオランダは17世紀の典型的資本主義国だった~背信、籠絡、殺戮、卑劣の比類のない絵巻物を繰り広げる。
興起しつつあるブルジョワジーは、労働賃金を「調節」するために、すなわち利殖に好都合な枠の中に押えておくために、労働日を延長し労働者自身を標準的な依存度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する。これが、いわゆる本源的蓄積の一つの本質的要素である。
国民的な称号で飾られた大銀行は、その出生の当初から、政府に助勢して与えられた特権のおかげで政府に貨幣を前貸しすることのできた私的投機業者たちの会社にすぎなかった。
国債とともに、1つの国際的信用制度が発生したのであるが、それはしばしばあれこれの国民における本源的蓄積の源泉の1つを蔵している。たとえば、ヴェネツィアの掠奪制度の種々の卑劣行為は、滅び行くヴェネツィアが巨額の貨幣を貸していたオランダにとっては、その資本的富の、このような隠れた基礎をなすものである。オランダとイギリスとのあいだにも、同様な関係がある。(中略)オランダの主要事業の一つは、巨大な資本の貸し出し、ことにこの強大な競争者、イギリスへのそれとなる。今日では、イギリスと合衆国とのあいだでも、同様なことがいえる。今日合衆国で出生証書をもたずに現れる多くの資本は、ようやく昨日、イギリスで資本化されたばかりの児童の血液である。
つねに一人の資本家が多くの資本家を滅ぼす。この集中とならんで、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪とならんで、ますます大規模となる労働過程の協業的形態、科学の意識的技術的応用、土地の計画的利用、共同的にのみ使用されうる労働手段への労働手段の転化、結合された社会的労働の生産手段として使用されることによるあらゆる生産手段の節約、世界市場網への世界各国民の組み入れ、およびそれとともに資本主義体制の国際的性格が、発展する。この転形過程のあらゆる利益を横領し独占する大資本家の数の不断の減少とともに、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大するのであるが、また、たえず膨張しつつ資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結集され組織される労働者階級の反抗も、増大する。(中略)生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外被とは調和しえなくなる一点に到達する。外被は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。
<引用終了>
マルクスの慧眼によって指摘されていることが、上記の過程の反復或は洗練という形で現在の世界体制に反映されています。上記のシステムの解説は、一見すると資本主義の崩壊による共産主義体制の確立についてのみ語っているように思われます。
しかし、現代社会においては一党独裁主義体制による共産主義体制の方が、資本主義体制に比して国民の格差が増大しています。上記の「収奪者」を「支配者」に置き換えれば同様の結果が導かれることが予想されます。
「歴史は繰り返す」という事実を踏まえて、古典的名作を反復して読み返すことは大切です。
ただ、今は時間があまりにもないなあ(嘆)。